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「……ちょっと薄いかな」
キッチンの奥で綾が呟いている。
こちらからはその後姿しか見えない。
彼女の手が伸び、俺の知らない調味料をとって鍋の上で振った。
一瞬、ふわっと 刺激的な香りが漂う。
「…………」
ず。と、コーヒーを一口。
すでに読み終わった経済情報誌を俺はまた開く。
もう目を通すのも三度目の本に 目新しい情報は何一つなく、つい溜息をついた。
「慎一郎、お取り寄せしたお醤油知らない? 瓶で、二本あったんだけど……
あ 、ごめんなさい、ここだった」
質問を自分で完結させて、彼女はまた料理に戻っていく。ネットで買った本に載っていた和風ロールキャベツにチャレンジしているらしい。今日の昼食はロールキャベツとピラフだそうだ。
「…………」
かいがいしくキッチンで働いている綾を見ていると、嬉しい反面申し訳ない気持ちになる。彼女だって仕事で忙しい。今日はたまたま二人の休日が重なったものの、彼女一人に家事をさせておくのは夫として如何なものだろう。綾は俺に「コーヒーでも飲んでいて」と、カップを渡してキッチンに篭もってしまったが、どうにも気になる。
何か手伝えることがあるといいのだが、邪魔をすると怒られる。かといって、一人でダラダラ過ごすのも性に合わない。
実際のところ、俺は途方に暮れていた。
盗み見るように綾の後ろ姿を見つめる。綾が特に料理好きだというイメージはなかったが、今日の彼女はとても楽しそうだ。さっきはカレーのTVCMの曲を口ずさんでいた。恐らく無意識なのだろうが。
鼻歌交じりの彼女に引き替え俺はと言えば、どう行動したらいいのか判断もつかず、一杯のコーヒーを30分かけて飲んでいる有様だ。
……まあ、それでも。
こういう時間の使い方も悪くない。
どこかで待ち合わせて会うのではなく、同じ空間で目覚めて、同じ空間で一日を過ごす。
特別な一日としてではなく、ごく当たり前に互いの時間を重ね合わせる。
それは独身時代には得られなかった日常だ。
満喫しなければバチが当たる。
時計を見ると、昼の11時少し前だ。昼食後は彼女と買い物にでも行こう。そう言えば見たいDVDがあると言っていた。帰りにレンタルしてきて、寝るまでの間に二人で見るのも悪くない。
「さて、あとは煮込むだけかな……タイマーは……1時間でいいか」
綾の呟きが聞こえる。
当分鍋を火にかけておくつもりのようだ。 俺は飲み干したコーヒーカップを手に立ち上がった。
「終わったなら君も休んでくれ。カフェオレでも淹れて来るよ」
「ん、ありがとう。でも自分で好きなように淹れるから気にしないで」
エプロンを外しながら綾が笑った。 その時だった。
――――――♪
オルゴールのような機械的な音楽が鳴り響く。
それが家の電話だと気が付くまでに数秒必要だった。普段、用があればかかってくるのは携帯で、しかも俺はあまり家にいないから、家電の着信音は聞き慣れていない。
電話に向かおうとする俺より早く、パタパタとスリッパを鳴らして綾が駆けてく る。
「いいわ、座ってて。――――はい、谷村です」
セールスか何かの電話なら、途中で変わって応対しよう。
そう思いながら綾の様子を窺う。と、綾は突然砕けた笑みを浮かべた。
「こんにちは、お久しぶりです。
……はい、いますよ。 え? ……それはお疲れ様でした。
浅野さん、どちらに行ってらしたんですか?」
「……浅野?」
思わず声に出して呟いた。
あいつは昨日一日出張だったはずだ。
……出張明けの休日くらい黙って家で寝ていれば良いものを、何の用なんだか。
「え? いえ、それは申し訳ないです。
ありがたいですけど、でも……お土産って、そんな気を遣って頂いて……えっ、 やだ、そんなことまで話してるんですかあの人。
ええと……嘘じゃないです。通販好きなんです。ネットショッピング。
色々買いますけど、産地限定モノに弱くて。やだな、なんだか恥ずかしいかも」
笑い声。……話が弾んでいるようだ。
どのタイミングで電話を代わるべきだろうか。なんにしても早目がいい。あまり長話をされるとロクなことにならない。そんな気がする。
「綾、俺が――――」
出る、という言葉は、彼女の笑顔で遮られた。
「なら浅野さん、ウチでお昼食べませんか? 慎一郎もいるし、一緒に」
何かとても良いことを思いついたかのような口調。
いいよね、と受話器を斜めにずらして、綾がこちらに視線を向けた。
「浅野さん、出張のお土産持って来てくれるんですって。でもエントランスで帰るっていうから、それじゃ申し訳ないでしょう?」
綾は受話器の位置を戻した。……ここからではヤツの声もロクに聞こえてはこないが、恐らく電話の向こうで浅野も少し困った顔をしているはずだ。
「本当に大丈夫です。三人分は充分ありますから。
ロールキャベツはお嫌いですか? 和風なんですけど。あと、ピラフを作りました。
……え、そんな、遠慮しないでください」
言いながら綾はまた笑う。俺は笑いたい気分ではない。
「……貸してくれ」
綾に歩み寄って受話器を受け取った。そして一言。
「来るな、邪魔だ」
「ちょっ、慎一郎!?」
それだけ言って受話器を綾の手に戻した。綾の目が怒っているが、仕方ない。せっかくの休日、浅野に乱入されるのは気に入らない。
「すみません、浅野さん、あの人……」
――――はは、わかりやすい反応ですね。
彼女のすぐ隣に立つ俺に、浅野の声が受話器から漏れ聞こえて来る。 笑っているようだ。
――――気が変わりました。
せっかくだからお邪魔します。 慎一郎に嫌がらせをする良い機会のようだし。
「……おい、こら」
それを聞いて、綾は軽く吹き出した。
「どうぞお越しください。1時間くらいかかりますか?」
――――そうですね、早くて1時間。ああ、途中で買い物をしていくので、1時間半くらい余裕を見ていただけると。
「わかりました。お待ちしています」
ホテル勤務らしい丁寧さで言って、綾は電話を切った。
そして楽しげにこちらを振り返る。
「どうしたの、慎一郎。苦虫噛み潰したみたいな顔してるけど」
「……理由を言わなくてはわからないか?」
「んー、ちょっとわからないかな」
「……おい」
悪戯した後の子供のような足取りで、綾は俺の前を横切っていく。
その姿は嬉しそうで、楽しそうで。
まったく、困る。
「使い古された言葉で悪いが、悪い子にはお仕置きだ」
通り過ぎようとする彼女を俺は、丁寧に、けれど力づくで引き寄せた。
「……っ?」
綾のスリッパが片方脱げる。 振り仰いだ彼女にキスした。
「あ……っ……」
一瞬、強張った気配。もうキスなんて数え切れないほど交わしているのに、まだ 突然のキスは緊張するらしい。それが愛しく思える。緊張するくせに、次第に馴染んでいく舌は誘っているようだ。
「慎一郎……、カーテン開いてるのに……っ!」
キスに応えながらそう苦情を言う。 言われて、窓の向こうに目を走らせた。遠くにまた別のマンションが見えている。ここを覗いているようなモノ好きもいない
とは思うが、そう言われると気にはなった。
「……仕方ないな」
俺が手を離すと思ったのか、綾の体が安堵したように弛緩する。 だが、甘い。
「ちょっ……!」
悲鳴じみた声が耳元で響く。大きな荷物のように肩に抱え上げた体は、決して軽くはない。ほんのり脂肪がついた、大人の女の重さだ。そう言えば隠れて体重計に乗っているようだが、どのくらいあるのだろう。質問したら怒られそうだ。
「慎一郎ったら!」
「喋ると舌を噛むんじゃないか?」
綾を抱えたまま、そのドアを開けた。ドアの向こうは寝室だ。薄いカーテン越しにやわらかな陽光が降り注いでいる。
「っ、何、考えて……!」
8割本気2割期待の抗議を聞き流して、肩の上の彼女をベットに降ろした。ゆっくりと奇妙なタイミングでベットが沈む。 低反発のマットレスなんだったかな、
と、今思っても仕方のないことを考えた。
「あっ……!」
身を起こそうとする彼女を抑え込むように、喉元にキスする。キスするというよ り噛み付いたという方が近いかもしれない。高い声が響き綾の体が震え、動きが
止まる。
「や……もう、何して……」
まだ何もしていない、そう答えたいが、あいにく唇も舌も他のことで忙しい。
ベットに肘をついた彼女の手に、自分の手を重ねた。
腕に触れ、肘にのぼり、肩まで指を這わせて体を辿る。薄く柔らかい素材のスカートが俺の膝の下で擦れて 音をたてた。そう言えば、パジャマでもなく外出着でもない彼女の服を脱がすのは初めてだ。特に扇情的な格好ではないのに、妙に興奮する。
這わせた手が綾の脇腹に触れる。そのまま服の裾から手を忍ばせた。
触れる素肌は弾力があって驚くほど熱い。
欲情しかけているんだろうか。 だが、 始まっているのはこちらも同じだ。
髪から、唇から、彼女の匂いが立ち昇って俺を包んでいる。それはフレグランスなどではなく紛れもない綾自身の体臭なのに、俺はその匂いを甘く感じる。
あまりに深く吸い込んでしまうと頭の芯がクラっとして、ものを考えられなくなりそうだ。
「あ、や、だ、ってば……!」
弱く頼りない声が漏れた。忍び込んだ俺の手を、服の上から彼女が押さえる。頭をあげてその顔を見ると、泣きそうな、困ったような、それでいて待ち侘びているような表情をしていた。
「浅野さんが来るのよ? それに、お鍋だってかけっぱなしだし……」
「鍋はさっきタイマーをかけておいたんだろう?」
「でも」
「浅野はあと1時間以上来ない。来てもオートロックを開けなければ問題ない」
冗談で言っているのではないことはすぐにわかったのか、綾の顔に驚きと焦りが浮かぶ。
「それはダメ! 浅野さん、わざわざ来てくれるのに……」
「なら、考え方を変えよう。1時間以内に終わればいい」
「っ……!」
俺の手を押さえた綾が赤くなる。
「そんな、勝手なこと」
「いいのか? 時間がかかれば浅野が来るぞ」
「っ………。
慎一郎の馬鹿!」
それは了承の言葉だ。俺は彼女の頬を撫で、唇に口づけを落とした。
諦めたのか、自分でもここで止められないと思ったのか、今度は抵抗せず綾の背がベットに沈む。
「……見えるところにキスマークとか残したら、慎一郎のネクタイ全部にアップリケつけるからね」
最後の抵抗に小さく笑った。
「……それは困るな。 努力しよう」
可愛くも恐ろしい脅しを胸に、俺は彼女を抱き寄せた。
END.
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