| 「……こんなもんかな」
鏡の前で、適当に髪を直した。 多少癖が残っているものの、別におかしくないだろうと判断して制服の襟を閉める。 最初は鬱陶しいと思っていた立襟の制服も、今では慣れて違和感がない。堅苦しい服装は苦手だったけれど、そんなことを言っていたらホテルでのバイトは続けられない。
時計を見る。 ……所定時刻の4分前。少し、ギリギリだ。 更衣室を出てドアを閉めた。人気の少ない廊下を歩いて行く。そういえば、バックヤードの掃除当番もそろそろだ、などと考えたとき、曲がり角の先に髪の長い後姿が見えた。その瞬間、鼓動が跳ね上がる。
あの人だ。 おはようございます、と声をかければいいのにできないのは、
妙に緊張して、自然に声なんかかけられそうにないから。 畜生、俺はケツの青い中学生か。 緊張しても、歩調は変えない。俺より彼女の方が足が遅い。だからどんどん近付いていく。
近づいて、しまう。 彼女が俺の足音に気付いた。 歩調を緩めて、肩越しに振り返る。 横顔。 長い髪が流れる。少し色の薄い、やさしい色合いの彼女の髪。
物静かな印象の、でもどこか華やかな顔が、俺を認めて微笑みを浮かべる。 「おはよう、亮くん」
―――この瞬間、胸が破れそうになる。 「……おはよう、ございます」
跳ね上がったままの鼓動を、どうにか押さえて呟いた。やわらかな微笑みを崩さずに彼女は続ける。 「亮くん、今日は遅番なんだ。休みかと思ってた。シフト表確認してたはずなんだけど」
「今日は代理です。他のヤツが来られなくなったんで」
「え、そうなの? 誰? 今日のメンバーっていうと、ええと」
「伊藤です。風邪引いたって連絡が来て」 「そうなんだ。そういえばこの間咳してたかな」
彼女がエレベーターの前で立ち止まった。必然的にその隣に並んでしまう。せっかくスピードを合わせて斜め後ろを歩いていたのが、台無しだ。 彼女の身長は、こちらより頭一つ分低い。隣に並ぶと少し見上げてくる。自分は大人の女だって顔をしているくせに、ふと見せるこういうしぐさが可愛い。
目が合って、馬鹿みたいに胸が痛んだ。 この音が聞こえやしないだろうかと、いつだって不安になる。 「亮くんって、よくバイト入るよね。
学生さんは休めるときに休んで、遊んだ方がいいんじゃないの?」 「……そうかもしれませんけど。遊ぶのは適当にやってますから。
バイト今日入ったのは、今月金ないんで稼ごうかなと思っただけで」 それは嘘だ。 今日が彼女の出勤日だと知っていたから、代理を引き受けた。でも彼女はその言い訳を何の疑いもなく信じたようだった。
いや、もしかしたら気づいていて言わないだけかもしれない。 「亮くん、一人暮らしだっけ」
「はい。バイト代はほとんど生活費にしてるんで」 「それじゃ頑張らないと。大変だね」
「……別に、大変でもないです」 「アロマパークのバイト始めて、どのくらいだっけ?」
「どのくらいだろ……それなりに続けてます」 「亮くんは、最初から優秀だったよね」
何を思い出したのか、突然彼女は小さく笑った。 「……そうそう、覚えてる? 亮くんがバイトに初めて来た日。
ファイルが落ちてきて、亮くんに助けてもらったんだよね。忘れちゃったかな、あんな……」 「覚えてますよ」
即答した。少し驚いた顔をした彼女の顔を見て、もう一度続けた。 「覚えてます。忘れてません」
そう、忘れるわけがない。 あれはバイト初日の、バックヤードだった。 * * *
タイムカードを差し入れ、退社手続きを完了させる。 あとは、更衣室に行って着替えて帰るだけだ。 「……ふぅ……」
軽く肩を回して、息を吐いた。 どんなものであれ、バイトの初日というのは緊張する。 特に今日、自分についた先輩社員が苦手なタイプだった。
年上だけれど若くて、見栄えが良くて受け答えが完璧な、笑顔を張り付けたマネキンのような女。 丁寧に一つ一つの作業を教えてくれはしたものの、正直やりにくいと思った。 おまけに、彼女は自分を
『亮くん』 と馴れ馴れしく呼ぶことに決めたらしい。イズミという姓の人間が既に社内にいるから、という理由だが、親しくもない人間に親しげに呼ばれるのは不愉快だった。
それに、当面彼女について仕事を教えてもらうのだと聞かされて、内心げんなりもしていた。 早くも次のバイトを探すべきだろうかと、考えそうになる。
いや、でもまだ早い。 せめて一週間は続けてみないと―――そう、思った時だった。 バックヤードで、何か大きな物音がした。 (ん……?)
開きっぱなしのドアから、中を覗く。……誰もいない。 気のせい、ではないはずだ。あんな大きな音、聞き間違うわけがない。
(こっちの方だったのか?) バックヤードの奥は、確か物置のようになっていたはずだ。
見るとその奥に誰かがうずくまってる。 (……あ)
彼女だ。 今日一日散々自分がついて回らされた先輩社員。 あのマネキン女。 その彼女の困り果てた必死な顔が、まず目に飛び込んできた。
片手でロッカーの上段から落ちるファイルを支え、もう片方の手で下段から落ちかけたファイルをかろうじて受け止めている。床に片膝をついていた。相当重いのか、腕がかすかに震えている。放っておけば、あと数秒で彼女はファイルの山に埋もれるだろう。
(……ギャグ漫画かよ) 吹き出しそうになるのを堪えて、ロッカーの間に回り込む。靴音に気づいて彼女が顔をあげた。ここに立っているのが誰かを認識する。
瞬間、彼女が安堵に溢れた笑顔を浮かべた。 (あ……!?)
その安心しきった顔に、心臓が跳ねた。 どうしてだ? まさか、こんなことくらいで。 動揺した自分にもう一度動揺しながら、俺は平然を装って奥へと歩いた。
「亮くん、よかった。あの、今」 「そこ支えます。手、どけてください」
「あ、うん」 彼女の手に重ならないようにしながら、ファイルを支えた。彼女の腕は震えていた。相当重いファイルなんだろう。力を込めて棚の上へと押し戻す。けれど予想よりはるかに簡単に、拍子抜けするほどあっけなく、数冊のファイルは元の位置に押し戻された。
……なんでこんなことが出来ないんだこの人。 そう思って 『そうか腕力がないのか』 ともう一度思い直した。
そうだ、当然だ。女だから。 どこか新鮮な感動を覚えながら、下のファイルも同様に押し戻す。彼女はほっと息を吐いた。
「よかった、一冊出したら全部崩れてきちゃって、どうしようかと思ってたの」 よほど緊張していたのか、薄く汗がにじんだ額を彼女は手で拭う。
そしてもう一度、俺を見上げて子供のように笑った。 「助けてくれてありがとう、亮くん」
(うわ。―――なんだこの人) すげぇ可愛い。 頬が熱くなるのを感じて、慌てて顔を背けた。
彼女は床に落ちたファイルの埃を払いながら、何か独り言のような雑談をしている。けれど、もうそれは耳に入らなかった。 恋に落ちる瞬間というのが、もしあるのならば。
自分にとってそれが、この時だったんだろう。 彼女のこういう顔が、もっと見たい。 彼女のことをもっと知りたい。 だから、彼女の傍にいようと決めた。
そうすれば少しでも多く、この笑顔を見られるだろうから。
* * *
「あれ以来かな、亮くんを頼る癖ついちゃったのは」
そう言って、エレベーターを待つ彼女は苦笑いを浮かべた。本人にとっては、恥ずかしい思い出なんだろう。 そこにどんな温度差があるか、きっと気づいてはいない。
「別に、頼られてるって意識ないですけど」 「でも、今まではずっと一人でやってきたし、それが普通だったんだけどな。
それが今じゃ……たとえば亮くんが休みの日でも、どうしようもないくらい忙しい時につい 『そうだ亮くん一緒に』 って言いそうになったりして。 ダメね、本当に」
「……そんだけ忙しかったら、携帯で呼び出してください。 ヘルプに来ますから」
「そういうわけにはいかないでしょう。せっかくお休み中の人を軽々しく呼び出せません」
「それ、意地張るとこですか」 言っている間に、エレベーターが到着した。
二人で乗り込んで、ボタンを押す。 しばらく動作音だけが響いた。 エレベータが停止して扉が開く。一歩外に出て、彼女が立ち止まった。
「……あれ?」 沈黙が彼女の声で途切れる。 気がつくと、涼しげで綺麗な眼差しが正面から俺を見つめていた。
「……え? あの」 内心、激しくうろたえる。一日一緒に仕事をしていても、真正面で目を合わせることなんてそんなに多くない。何かあったんだろうか。俺はここまでの会話で、何か失敗したんだろうか。一瞬の間に色々なことを考える。
「亮くん、髪の毛。寝グセつきっぱなし」
「え? あ、ああ……すんません、直したつもりだったんですけど」 「ここ」
彼女が手を伸ばして、俺の髪に触れた。 (うわっ……)
心臓がひときわ大きく音を立てる。 髪にも、神経はあるんだろうか。そんなはずはない。だけど今、彼女に触れられているこの髪が、熱い。体温を感じている。
「あんまり目立たないけど、次の休憩で直したほうがいいと思うな。後でヘアフォーム貸してあげるから」
「……はい、ありがとうございます」 どうにかそれだけ答えると、彼女の手が離れた。その指と眼差しと、両方から逃れて息を吐く。安堵とも寂しいとも言えない感覚だ。
と、突然彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて、下からこちらを覗き込んだ。 「……っ!」
驚いて、思わず身を引く。 「な、なんですか」 「亮くん、さっきドキドキしてた?」
「え……え!?」 「ちょっと顔赤いよ」
「っ!!……そ、そんなことねえ……ありません!」 「可愛いぞ青少年」
歌うように言って、楽しげに彼女は歩いていく。俺は自分の足がへたりこみそうになるのを自覚した。 「ったく、ふざけんなよ……人で遊ぶなっつーの!」
小さく毒づきつつも、顔が熱い。 ……彼女は時々、こうして俺をからかう。こちらの気持ちを知っているのか、いないのかはわからない。知っているとしても、彼女にとって俺は子供でしかない。大人になつく幼児と同じ扱いだ。
だけど、俺は子供じゃない。いや、精神年齢はまだ自信が持てないけれど、彼女に対する感情はもっと深く、もっと邪だ。 いつかそれに彼女は気づくだろうか。
気づかせることが出来るだろうか。 ――――『助けてくれてありがとう、亮くん』
あれがなくてもいずれ自分は彼女に心を奪われていた。 ただ、早いか遅いかという、それだけで。 「亮くん、始まるよ」
足を止めていた俺に、廊下の先から彼女が声をかける。我に返って、駆け足で彼女の後を追った。 「今行きます!」
また、バイトの一日が始まる。 END
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