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「へっくし!」
「っと、汚ぇなぁ……」
誰もいないと思って盛大にくしゃみをしたら、斜め後ろから苦情があった。
「あれ、なんだいたの?」
「いたよ! 気づけよ!」
後ろから歩いてきたバイト仲間は、俺の横を通り過ぎてパイプ椅子に体を投げ出した。安っぽいイスが悲鳴を上げる。手狭な倉庫に金属音が響いた。
「お前風邪ひいたんじゃねーの? なんか今日くしゃみだの咳だの多くねえ?」
「んーわかんない。そうかもしんない。朝晩温度差あるから」
「お前んちエアコンないんだっけ?」
「ないよ。自然に近い環境で地球に優しい生活をしております」
「信じらんねぇ。暖房はともかく冷房使えないなんてありえない」
「割と平気だけど」
「平気じゃねえから風邪ひいてんだろ!」
苦笑するヤツの隣を、集配のために運び込まれたダンボールが行き過ぎる。あの中に、オネーサンの家への荷物はあるだろうか。そんなことをぼんやり思った。
「お前さぁ今付き合ってるヤツいんの?」
「……は?」
唐突な質問に、間の抜けた声を返してしまった。
なんだろ、急に。
「いきなり何。何の話?」
「なんかお前のことイイってコがいて。良ければ紹介するけど、どーする?」
「どーするも何も、誰それ? 俺の知ってる人?」
「前に合コンしたじゃん。医療事務OL三人組。あれの一番髪短い子。覚えてっかな。左右長さの違うピアスした」
「ああ、わかったわかった! お寿司が嫌いって言ってた子? えーでもなんで 急に?」
「あん時は彼氏持ちだったんだけど、その彼氏と別れたんだと」
「えっなんだ彼氏いたんだ? よかったーヘタに手ぇ出さなくて!」
「今じゃフリーだぞ」
「フリーかあ。フリーねぇ。魅力的な響きなんだけどなー」
「お前が音楽関係って聞いて、興味あるんだってさ」
「音楽関係つっても、バンドとかそんなんじゃないよ。知ってんの?」
「一応話してある。どうよ、会ってみねぇ?」
「んー……」
適当に返事をしたら、ヤツが軽くため息をついた。
「マジで興味ないみたいだな。でも今お前、彼女いねーだろ?」
「いないよーん」
「んじゃ何? 好きなコでもいんの?」
「どうだろ。好きなのかな、よくわかんない。
それにコっていうか、年上だし」
「え、お前ってそうなの? 確かに年上受けしそうだけど」
ヤツは身を乗り出してきた。他人の恋愛話を聞きたがるなんて、変わったヤツだな。
俺なんかは人の話は結構どうでもよくて。語られれば一応礼儀として聞くけど積極的に聞き出したいとは思わない。だからこういう反応はちょっと不思議だ。
「それじゃあ他の女はどうでもよくなるよなぁ。で、どのくらいの関係なわけ?」
「どのくらいも何も、その人は俺に興味がないから」
「え、マジかよ」
「そもそも既婚者だし」
「……人妻?」
「そう」
「うわっ、お前すげーな! 俺だったら結婚してるって時点で恋愛対象に入んねーよ!」
「最初会った時は向こう独身だったっつーの」
「え、なんだよそれ!? もうちょっと詳しく話を聞かせろ! おい、榛名!」
「あ、俺もう上がりだから。帰るから、んじゃーねー」
後ろで何やらわめいているヤツにひらひらと手を振って、俺はノモト運輸の帽子を脱いだ。 歩きながら、軽く伸びをする。
(……人妻、か)
初めて会った時に、もっと本気になってれば良かったな。
そうしたら、今の俺の立ち位置は、もっと違ったものになってたかもしれないのに。
* * *
……ヤバイ。
結構本気で、具合が悪い。
呼吸するたび熱っぽい息がまとわりつく。関節が痛んで眩暈がした。
人気のない夕暮れの街をふらふら歩いて駅に向かう。
宅配便のバイトが終わって1時間。
気がつけば体調はひどく悪化していて、今じゃ立っているのも歩いているのも苦痛だった。
「くっそー、マジで風邪かよ……ふざけんなっつーの」
悪態をついても調子が良くなるわけじゃない。……風邪って、こんなに辛かったかな。
「……駄目だ、ちょっと休憩……」
知らない家の壁にもたれて、そのままずるずると地面に座り込んだ。
熱のせいか皮膚がチリチリする。
早く帰って横になりたい。ベットに潜り込んで眠ってしまいたい。
ああでも、多分明日は寝込んでしまうだろうから、先に薬とか食料を確保しておかないといけない。こういうとき一人は大変だ。
うずくまったまま目を閉じた。
座り込んだ地面の冷たさが心地よい。
(あー……まずい、これじゃ本気で行き倒れだ)
誰かに電話をして来てもらおうか。
一瞬そう考えた。でも、友人はバイトしているヤツが多い。夕方なんて一番忙しい時間だろう。
(……オネーサン、今頃何してるのかな)
ふと、彼女の顔が頭に思い浮かんだ。
今日は会えなかった。彼女の家に届けるものが何もなかった。
(……会いたい、な)
ほんのちょっと顔を見るだけでいい。
いつものように 『馬鹿ね』 って、笑ってほしい。それだけで心の奥に灯がともって元気になれる。だから会いたい。
寂しい時は電話して、と、冗談めかして彼女に言うけれど、会いたいのは本当は俺の方だ。
いつだって彼女に会うチャンスを狙ってる。会いたくて会いたくて、焦がれてしまう。
……でも、そんなことを口に出したらきっともう会ってくれなくなるんだろうな。
この気持ちが重すぎて傍にいられなくなる。
だって彼女は、俺のものじゃないから。
「……って、何ナーバスになってんだ、俺……」
立てた膝に額を付けて息を吐いた。
風邪のせいで随分気持ちが後ろ向きになってる。普段こんなことは思わないのに。
(……後ろ向きっつーか、本音なのかな)
自分で自分に苦笑した。
あの人が俺のものじゃないのは納得してるはずなのに今更何を考えてるんだろう。
別に奪い取りたいとか、今より距離を縮めたいとか、そんなことは思ってない。
ただ会いたいという、それだけで。
「……ふぅ」
軽く首を動かした。関節の痛みは強くなってきている。
こんな所であんまりゆっくりもしていられない。ここでこうしていたからといって調子が良くなるわけはないんだから。
もう少し、もう少しだけ休んだら行こう。
そう思って息を吐いた。
* * *
「あ、起きた」
「……へ?」
頬の下に柔らかい感触があった。
温かくてなんだか懐かしい。これは……タオルケット?
上半身を起こして周囲を見回した。
左右には白っぽい色の壁がある。室内だ。でも、部屋の中ってわけじゃない。玄関……だよな? でも、誰の家の?
見覚えがあるような、ないような……ここ、どこだろ。
「大丈夫? お水飲める?」
ボケっとしていると、目の前に水の入ったグラスが差し出された。
それを見て喉が渇いていることに気づく。
ありがたく受け取り、差し出した手の主を見て少し呆然とした。
「……オネーサン」
「どうしたの? 変な顔して」
苦笑した顔は、見間違いようもない、彼女だ。
長い髪を首の後ろで結んで俺の前に膝をついていた。
「あれ、もしかして覚えてない? コンビニの隣の道で行き合って、ここまで一緒に来たの」
俺に冷えたグラスを手渡して彼女は立ちあがった。その後ろ姿が短い廊下の奥に消える。何をしているのか、冷蔵庫を開けるような物音がした。
「え、嘘、ここオネーサンの家!?」
改めて周囲を見回した。……見覚えがあるわけだ。ここにはもう何回も宅配便を届けに来ている。
「そうだよ。ほんとに覚えてないの?
すごく顔色悪かったからほっとけなくて、一休みしていけばって声をかけたのに。
ここまで自分で歩いてくれて助かったけど、ここで薬飲んだらコトンと寝ちゃって」
「それ誰の話?」
「榛名の話。……じゃあ、私が家に上がったらって言ったのに、遠慮して玄関に転がったのは?」
「……全然覚えてない」
「こんなとこで眠られる方が迷惑よ? 部屋の中に運びたくても、私じゃ無理だし」
「……ゴメ。本気で申し訳ありませんでした」
水を飲み干して息を吐いた。
言われてみれば、なんとなく記憶がある。オネーサンに道端で会って、引きずられるようにしてここまで。
少し寝ていけばって言われたけど、なんか無性にそれは駄目だって気がして、断ったんだ。
「よっぽど具合悪かったのね。薬飲んだとたん、玄関にうずくまって動かなくなるから、心配しちゃった」
「今って何時?」
「10時半」
「マジで!?」
バイトが終わったのが夕方だから一体何時間ここで寝ていたんだろう。そう言えば、熱のせいとかじゃなくて物理的に腰とか肩が痛い。床の上で寝てたんなら当然だ。
「それで、調子はどう?」
「え?……あー、うん、大丈夫。かなりマシになったみたい」
眠り込む前にもらって飲んだ薬のせいなのか、寒気も体調の悪さも、すっかりおさまっていた。
まだちょっとフラフラするけど、それだけだ。
「ほんとごめんね。助かった。つうかオネーサン、旦那サンは?」
「出張なの」
「また?」
また、と、言ってから、しまったと思った。
これはあんまり触れちゃいけない話題だ。
「急な出張だって。 ……榛名にまでそう言われちゃうくらい、あの人家にいないのね」
何でもないことのように笑いながらオネーサンは俺の前に戻ってきた。今気づいたけど、彼女はちょっとゆるい感じのルームウェアだ。こういう格好、初めて見る。なんだかすごく勿体ないものを見ているような、そんな気分になった。
「榛名、家まで帰れそう? 顔色、まだあんまり良くないよ」
「いやでも帰らないわけにはいかないでしょ」
オネーサンは眉をひそめた。ちょっとだけ、考え込んでいる。
「……あんまり調子悪いなら、泊まっていってもいいけど。リビングでよければ
、部屋あいてるから」
「泊ま……って、んなことしたら、俺なんかするよ?」
「しないよ、榛名は」
本気で言ったのに、軽く笑ってかわされた。
「榛名は私が嫌がることはしないでしょう?」
「……え、何、そのレベルで俺は信用されてるの?」
苦笑してしまった。
それじゃ裏切れない。ひどいなぁ、本当に。
「……その信用なくしたくないから家帰ります。いくら頑張っても俺にも忍耐の限界があるからさ」
「そう、大丈夫?」
「今なら家まで帰れるよ、大丈夫」
俺は立ちあがってタオルケットをたたんだ。彼女にそれを手渡して頭を下げる。礼節はとても大事だ。
「いろいろご迷惑おかけしました。ありがと!」
「あ、ちょっと待って」
タオルケットを受け取ったオネーサンが部屋の中に消える。すぐに手に紙袋を下げて戻ってきた。
「これ、おにぎりと筑前煮が入ってるの。それと使いかけで悪いけど風邪薬が二回分入れてあるから持って帰って」
「へ!? そんなの悪いって!」
「こんなことで遠慮しないの。病人でしょう?」
「病人だけどさ……」
「もう用意しちゃったから今更いらないって言われても困るな。
……あ、もしかして知らない人が作ったオニギリは食べられないタイプ?」
「まさか! オネーサンが作ったものなら泣くほど嬉しいです!」
「泣かれても困るから」
「あ、うん。そうだね」
二人で笑って俺は彼女から紙袋を受け取った。
もう一度丁寧に頭を下げる。
「んじゃ、ありがたく頂戴します。ほんと色々大感謝です」
「気をつけて帰ってね。ちゃんとあったかくして寝るのよ?」
「はーい、そんじゃね!」
玄関を出て、肩越しに振り返った。
「榛名、またね」
……ほんの一瞬。
彼女の瞳を寂しそうな色が掠めて、それを断ち切るように扉が閉まった。
薄暗い廊下に沈黙が落ちる。
歩き出すのが妙にためらわれて、俺は閉じたドアにそっと触れた。
「……オネーサン」
無機質な扉は予想したより冷たくなかった。
さっきまでの温かさの名残のように、どこかなまぬるい。
……氷のようならよかったのに。
こんな温度じゃ気持ちを冷やす役に立たない。
「……帰ろう」
俺はドアに背を向けた。
歩くごとに紙袋がガサガサと音を立てる。
俺が貰ったこの食事は、きっと彼女が愛する夫のために用意したものなんだろう。
だけど必要がなくなってしまった。
そのことを思うと、自分のためではなく彼女のために胸が痛んだ。
あの人が可哀想だ。
幸せになりたくて結婚したんだろうに。
(……もし、俺なら)
あんな目をさせたまま放っておいたりしない。
彼女が安心するまでずっと傍にいて抱き締めてる。
「……って、ヤバイヤバイ」
想像して首を振った。これ以上考えてはいけない。彼女が選んだ道に余計な口出しをしてはいけない。
俺にできるのは、ただ遠くから慰めの言葉をかけるだけだから。
* * *
マンションのエントランスを出て空を仰いだ。
暗い夜空にはかき消されそうな星が顔を覗かせている。
神様なんて不確かなものは信じないけれど。
彼女を包む世界が優しくありますように、天に祈った。
END
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