「ねえ、藤原君ってさ……もしかして、私のこと、嫌い?」
始まった。
ホント、胃が痛い……この空気。
「……嫌いなんかじゃ、ねえよ」
「じゃあ! どうして!」
「…………」
無言。
言いたいことは分かってる。
鈍いオレでもさすがに感じた、あの雰囲気。
でも、無理だった。できなかった。
キスくらい、簡単だって思ってたけど。
それでも、また頭に浮かんだあの顔が……邪魔をした。
「……もう、いいよ。別れよ」
「……そうだな」
「……ッ」
キッとオレを睨みつける気配。
ぶたれるかも。
覚悟して、少し体を固くする。
「……好きじゃないなら……っ初めから、OKしないでよッ!!」
彼女は手を上げなかった。
ただ叫んで、教室から飛び出してった。
1人残されて、ため息。
……今度は、もしかしたらうまく行くかも、って……思ってたけど。
結局、無理だった。彼女を傷付けただけだった。
ざわざわと校舎のどこかで騒ぐ声。
校庭で集合をかける笛の音がする。
部活、出なきゃ。
夕暮れ色の教室で、オレは1人で動けない。
「……姉ちゃん」
苦しいよ。
オレ、もういやだ。
誰か、オレの心、掃除して欲しい。
そんで、姉ちゃんのこと……洗い流して、消して欲しい。
手の甲で、乱暴に目元をぬぐった。
******
「……ただいまー」
「あ、一輝、おかえり!」
「! 姉ちゃん……どっか行くの?」
「うん。ちょっとね」
「……またデートかよ」
「えへへ」
「この色ボケ」
「うるさいなあー。じゃあね!」
いかにも幸せそうな顔して、姉ちゃんはオレと入れ違いに出て行った。
あいつと出会ってからは、いつもこんな感じだ。
どうせ同じ学校なんだから放課後そのままデートすりゃいいのに、姉ちゃんはわざわざ着がえて出てったりする。
「……あら、一輝。帰ってたの?」
母さんが顔を出してにっこり笑う。
「夕飯いつにする? 今日は一輝と母さんだけだから」
「……なんか、食欲ない。遅くていいよ」
「あら、そう。あんたサッカー部で疲れてるんだから、ちゃんと栄養は摂らなきゃダメよ?」
「分かってるよ」
さっさと階段を上がった。
姉ちゃんの匂いの残ってる場所にいたくなかった。
床に鞄放り投げて、ベッドにごろんと横になる。
部活で相当汗かいたけど、シャワー浴びる気力もない。
今日は、マジで疲れた。
「何やってんだろ、オレ……」
隣のクラスの女子だった。
委員会で一緒になって。サッカー部の試合も、よく応援しに来てくれて。
付き合えば、ちゃんと好きになれるって、思ってたんだ。
可愛かったし……すごく明るくて、話してても楽しくて。
なのに……ダメだった。どうしても、ダメだった。
姉ちゃんを忘れたい一心だったのに、却って、自分の中の姉ちゃんがどれだけ大きいかって、思い知らされただけだった。
「……バカ姉貴……」
腹いせに呟いてみる。
最近のオレの口癖かも。
……姉ちゃん、今日も新しい服着てた。
あの許嫁と付き合いだしてから、姉ちゃんはどんどん綺麗になってく。
もう今じゃ、まともに顔も見られない。
考えたくなくたって、家に帰れば自然と姉ちゃんのことばかり考えちまう。
さっき、すれ違ったときの姉ちゃんの匂い。
学校帰ってから、すぐシャワー浴びたんだ。シャンプーの匂いした。
……あいつと、会うために。
「……ッ」
頭が、カッと熱くなる。
色んな認めたくない感情に、体が支配される。
姉ちゃんは、姉ちゃんは……あいつと。
「や……いや、だ……っ」
冷たいシーツに顔擦り付けて、目頭熱くした。
呼吸がうまくできない。
顔が火照って、唇が震えた。
必死で、熱いの、握り締めた。
「ん、ふゥっ……!」
何で、オレ、こんななんだろ。
どうして、姉ちゃんのこと考えて、こんななっちゃうんだろ。
汚い。オレ、汚い。
誰か、誰か掃除してくれよ。
オレの体ン中の汚いもん、全部綺麗にしてくれよっ……
「あ、はっ……、ぅ……ッ」
早く楽になりたくて、メチャクチャに弄った。
わざと痛くして、呻いた。
シーツに顔押し付けたまま、腰だけ浮かして、馬鹿みたいに息が乱れた。
「……ッ姉ちゃっ……」
手の中で、爆ぜた。
頭のてっぺんから、スウッと熱が抜けてく感じ。
途端に、膝頭が萎えて、半分仰向けに転がった。
手の平に、どろどろの、汚いの。
たくさん出て、シーツも汚した。
ティッシュ、間に合わなかった。
「……また……やっちゃった」
オレの体の中の膿。
出しても出しても、なくならない。
早く、なくさないといけないのに。
誰かにバレる前に、消さないといけないのに。
「……姉ちゃん……」
呟いた自分の声が、あまりに情けなくて、涙出た。
……どうしてこんなに、好きになっちゃったんだろ。
あのとき……父さんたちの話を立ち聞きしなければ、何か変わったんだろうか。
目を閉じた。
体の熱を追いだした後は、ただひたすら、虚しかった。
*****
心臓が破裂しそうだったのを、覚えてる。
姉ちゃんが、本当は姉ちゃんじゃない。
……正直、よく分かってなかった。でも、妙にショックで。
しばらく部屋にこもって、感情昂って、泣けて来た。
どうしたらいいのか分かんなくて、誰にも聞けなくて……自分の中にだけ、閉じ込めた。
家族っていう、ひとつ屋根の下で暮らしてる誰よりも近い存在。
オレが真実を知ったからって、そのことが別に変わるわけでもなくて。
ただひとつ変わったのは、オレが姉ちゃんを見る目。
自分の中で当たり前だった姉ちゃんって存在が壊されて、ひとつひとつ確かめるみたいに、姉ちゃんを観察するようになった。
姉ちゃんの顔、姉ちゃんの声、姉ちゃんの仕草……
そしたら、いつの間にか……姉ちゃんのことしか、考えらんなくなってたんだ。
階下で、母さんが誰かを出迎える声がした。
慌てて飛び起きて、窓を開ける。
手の平ウェットテッシュでぬぐって、シーツの染みを布団で隠した。
階段を上がって来る音。
まさか、姉ちゃんじゃないよな?
頭がガンガンして、目眩がした。
けど、ドアの向こうから聞こえて来た声は。
「……おーい一輝ィ。入っていいか?」
「えっ……智也兄ちゃん。あ、い、いいよ!」
「ちーす」
大きな背を丸めるみたいにして、智也兄ちゃんが入って来た。
半分ホッとして、半分……がっかりする。
「ん、なんだよお前」
「な……なに?」
「まだ制服なのか? いい加減着替えろって」
「そ、そうだね」
さっきしてたこと指摘されるのかと思って、焦った。
ビビり過ぎだ、オレ。
「おら。こないだお前が読みたいって言ってた雑誌。先月号のでよかったよな?」
「あ……ありがとう! わざわざ持って来てくれたんだ」
「おう。おれ、すぐ忘れちまうからさ」
ニッと笑う智也兄ちゃん。
ずっと昔から変わんない、オレの兄ちゃん同然の人。
……智也兄ちゃんは、知ってんのかな。……知らないよな。姉ちゃんのあんな事情なんて。
「……な、なあ。智也兄ちゃん……」
「ん?」
「あの、さ。学園でも……姉ちゃん、あいつと一緒にいるのか?」
「え……ああ、許嫁ってヤツか?」
頷く。
ちょっと嫌そうな顔になる智也兄ちゃん。
「まあ学年違うから、ずっと一緒ってわけじゃねぇけどさ。学園内でも1日1回は必ず会ってんじゃねえの?」
「そうなんだ……」
「なんだよ、一輝。大好きな姉ちゃんとられてムカついてんのか?」
「ちっ、違うよ! んなわけねえじゃん」
「あっはは! ムキになんなって。そういや、あいつ今日もデートなわけ?」
「……ああ、そうだよ。新しい服着て、出てった」
「ふーん。ラブラブで羨ましいこった」
肩をすくめる智也兄ちゃんに、ふとオレは聞いてみたくなった。
「なあ、智也兄ちゃん。……いないの? 彼女」
「へ? おれかぁ?」
「うん。なんかあんま聞かないから」
「まーあんま自分から話すことでもねえしなあ。……今はいねえけど?」
「前はいたの?」
「おう。とりあえずな」
「へえ……なんか、意外」
「意外って、どういうことだコラ」
「あ、なんて言うかさ……智也兄ちゃん、バスケばっかで、恋愛とか興味なさそうな感じして」
「うーん。多分それ当たってるわ。だから長続きしねえんだよなー」
「ふーん……」
「お前は? 一輝」
「え、オレ? 彼女?」
「モテんだろ? お前」
「も、モテないけど……いたことは、いたよ」
「お、過去形かよ」
「うん……別れちゃった。今日」
「へえー今日……今日!?」
素っ頓狂な声出して、身を乗り出して来る。
「なんだよ、じゃあ落ち込んでたのか? ワリィな……そんなときに」
「あ、い、いいんだ。全然大丈夫」
「ほんとかよ……」
「うん。……っていうか、オレの自業自得だから」
「へえ?」
「……好きでもないのに、付き合っちゃったんだ」
「マジで。……他に好きなヤツいるってことか?」
少し躊躇った後、首を横に振った。
姉ちゃんは、違う。
違う……
「じゃあ何で付き合っちまったんだ? 今日別れたその子と」
「……付き合ってる内に、好きになれるかもって……思って」
「まあ……そういうこと、なくもねえけどさ」
智也兄ちゃん、苦笑してる。
今更ながらに、わけ分かんないこと言ってる自分が、恥ずかしくなった。
「スゲー反省してるよ」
「まあ、相手の女の子は可哀想だったな」
「うん……」
「お前……さ。何で本命にはいけないわけ」
「……本命?」
「さっきは首振ったけどよ。……やっぱいるんだろ? 他に」
「い、いないってば」
「そうかぁ?」
「なんで疑ってるんだよぉ……」
智也兄ちゃんは、そういうの疎いように見えて、時々鋭い。
昔っから一緒にいて、オレのこと見破りやすいっていうのもあるかもしんないけど。
「まあいいけど。……でもお前、後悔するような恋愛はすんなよな」
「え……」
「……絶対苦しいから、さ」
どこか自嘲めいた表情で笑って、智也兄ちゃんはオレの頭、わしわし撫でた。
……智也兄ちゃん、今、苦しい恋愛してんのかな。
気になったけど、自分が隠し事してるせいか、突っ込んで聞く気になれなくて。
それからしばらくとりとめもない雑談をした後、智也兄ちゃんは帰って行った。
1人になった部屋で、オレはぼんやり、さっきの会話を反芻してた。
「……後悔、か」
後悔なんて、するまでもない。
だってこの気持ちは、絶対に暴かれない。
誰にも知られることはない。実ることもない。
だから、後悔なんてしようがないんだ。
いつの間にか、オレが勝手に好きになってた。
だから、またいつの間にか、この気持ちが消えることを期待して、耐えるしかない。
今までも、ずっとそうやってきたんだから……
*****
「ただいまぁー」
母さんとテレビを見ながら食事してる最中に、姉ちゃんは帰って来た。
オレの肩越しにテーブルを覗き込む。
……姉ちゃんの匂い。出て行く前とは、微妙に違う。
姉ちゃんの使うローズのボディローションの香りに加わった、微かな柑橘系の匂い。
飲み込んだものが、喉の途中で石に変わる。
「わ、今日マーボだったんだー。いいなあ」
「あなたも食べる?」
「ううん、いい。先輩と食べて来ちゃったし」
……先輩。
姉ちゃんがその言葉を言う度に、胸に鋭い痛みが走る。
泣きそうな顔を誤摩化すために、仏頂面になる。
「……それ以上太ったら、甲斐先輩に嫌われちゃうもんな」
「むっ! 生意気なのはこの口か〜!」
「や、やめ、やめろよ! 食ってんだから!!」
「こらこら。もう……あんたたちはいつまで経っても幼い姉弟ねえ」
「だーって。最近一輝可愛くないんだもん」
「可愛くなくて結構ですー」
「……ほらね!」
「ふふっ。仲が良いんだか悪いんだか……」
クスクス笑いながらオレたちを見てる母さん。
何の変哲もない家族の風景。
「ねーねー一輝」
「……なんだよ」
「もうそろそろ決めないとダメなんじゃない? 来年、どこ受けるのよ」
「まだ……決めてねえよ」
「ふーん。そっか」
本当は、もう決めてる。
でも、ギリギリまで言いたくない。
いくら姉ちゃんから目を逸らしたくたって、離れたくたって、結局近くにいたい自分自身が大嫌いだから。
「ま、あんただったらどこでも行けるか」
「え……」
「器用だもんね。私よりずーっと!」
「そんなこと……ねえよ」
「料理も上手だしさ。友達に言ったら羨ましがられちゃった。そんな弟欲しいって」
「……へえ。その友達、美人?」
「え? うん、そうだね。綺麗系だよ」
「じゃあ、オレもその人の弟がよかったな。こんながさつで乱ぼ……いでぇーー!!」
「ほーらほら、また……いい加減にしなさい!」
母さんの仲裁が入っても、姉ちゃんはしばらくオレのほっぺたつねってた。
結構容赦ない力で……本気で痛かった……。
夕食後、部屋に戻って、ため息。
今日はため息ばっかりの1日だ。
……マジで、他の人が姉ちゃんだったらよかったのに。
姉ちゃんが、オレの姉ちゃんじゃなかったら……よかったのに。
そんな夢みたいなことすら考えちまう。
「……姉ちゃんの、バカ」
また、口癖。
姉ちゃんは、当たり前だけど、普通にオレのこと弟としてしか見てない。
今はずっと前から決められてた許嫁ってヤツに夢中で。
オレがどんなこと考えて、どんな気持ちでいるのかなんて、きっとどうでもいいんだ。
少し腹立たしい気分になる。
でも気が付けば、オレはもう今日ふった彼女のことも忘れて、姉ちゃんのこと考えてる。
いちばん自分勝手なのは、オレ。
自分が苦しいからって、人の気持ちを利用した、オレなんだ。
自己嫌悪の嵐。今日ほど自分を最低だと思った日はない。
あがいてもあがいても、この苦しみから抜け出せない。
お前は家族に欲情してる救いようもなく汚いヤツなんだって、誰かに嗤われた気がした。
苦しいよ。もういやだ。
何もかも壊してしまおうかなんて思い詰めたこともある。
だけど、まだそこまでする勇気もなくて。
姉ちゃんが弟としてのオレに向ける家族の愛情を捨てる方が、耐えられなくて。
結局、どんな形でもいいから、姉ちゃんの側にいたい。
だから、きっとずっとオレはこのままなんだ。
壁1枚を隔てた向こうにいる姉ちゃんに、言えない言葉を、呟いた。
少しずつ、この気持ちを殺していこう。
そう決意して。
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