何やら今日は朝から学生全体が浮ついているような雰囲気だった。
怪訝に思っていると、職員室の机の上に華やかなラッピングのものが数個置かれているのを見て、ようやく今日がその日だということに気が付いた。
「周藤先生、モテモテですね」
「あ……。おはようございます、柿本先生」
今日に限って来るのが遅かった。
一体何人の同僚にこの有様を見られたのだろう。
内心舌打ちをしつつ、俺はこの無機質な机の上にはあまりに不釣り合いなその包みを無理矢理鞄の中に押し込んだ。
すると柿本先生が慌てたように俺の手を押し止める。
「ああ、そんな風にしちゃ」
「え?」
「…あ、いや。中には手作りの柔らかいものもあるでしょうから……」
「……ああ。しかし、このまま置いておくわけにも」
「それなら私の紙袋を差し上げます。そこの角井デパートのものですが」
「…ありがとうございます」
目尻に人の良い皺を刻んで、柿本先生は隣の自分の机から紙袋を取り出した。
「ついでに…私のものも受け取ってくれませんかねえ」
「え?……柿本先生の…とは」
「いえ、今朝廊下で会った学生に貰ったんですがね。どうも私は甘いものが苦手で…」
「私もそうですよ。チョコレートは特に」
「おや、そうでしたか。これは失礼しました」
「いえ」
「じゃあ大変ですねえ、そんなにたくさん。授業の始まる前からこれですから、 今日一日でどうなるか」
「いえ、その心配はありません。私は直接受け取らないことにしておりますので」
「え?……断るんですか」
「はい」
「なるほど。それでこうして置いてあるわけですね」
「……困ったものです」
重くため息をついた。
今日は過ごしにくい一日になりそうだ。
どうか今年は泣き出す学生がいないことを祈って、俺はHRの準備を始めた。
***
数日前、友人の同僚が元教え子と結婚していたと聞いた。
しかも、その教え子が卒業してすぐだった。
もう少し時期を考えればいいものを、と情けない気持ちでこぼすと、どうしても産まれる前に籍を入れなければいけなかったのだと彼は言った。
「先生、これ……」
「すまないが、私は学生からものは受け取らないことにしている」
「えーーっ…」
「それより君は先週の課題の提出がまだだったな」
「あっ……え、っと……。失礼します!!」
途端に逃げ去る学生の後ろ姿を眺めて、軽く吐息した。
……疲れた。
最近は疲れることばかりだ。
特に、数日前の同僚の話。
恥ずかしそうに新婚生活を打ち明けて来たあいつの神経を疑う。
教え子と結婚?
卒業してすぐ籍を入れないと産まれる?
……本当に、腹立たしい。
ああいう輩が存在するから学生は勘違いをする。
今日はこれで何回断った。
さすがに断るときには気を遣う。
学生とは言え、女の涙は厄介だ。
しかし、今の授業で今日の勤めは終わった。
腕の中に解答用紙を抱きしめようやく安堵した心地になる。
後はまた職員室の机に新たな闖入者がいないことを祈って……
「──きゃあっ!!」
「…あっ…」
胸元に軽い衝撃を覚えると共に、目の前に長い黒髪が散った。
同時に腕の中の解答用紙を廊下の床に落としてしまう。
気を抜いたあまりに、正面を歩く学生の姿に気付かなかった。
「すまない、大丈夫か?」
「……やだ。どこの無粋な壁かと思ったら、周藤先生か」
「ああ、…片桐…」
1年の片桐だった。
英語だけでなく他の教科も含めて学年でトップクラスの学生だ。
「拾いましょうか」
「あ…、いや、これは…」
「いいのいいの。見たって見なくたって点数なんか変わらないでしょ?」
止める間もなく片桐はひょいひょい床に落ちた解答用紙を拾って行く。
慌てて俺も拾い始める。
なんて無様な光景だ。
「……あ」
「どうした?」
片桐の声に一瞬手を止める。
彼女はあろうことか一枚の解答用紙を手にとってじっとそれを見つめていた。
「……ふふ。あの子って、ホントばかね…」
「おい、片桐。他人の答案を」
「他人じゃないです」
「なに?」
「親友。名前があったから、思わず」
「親友ったって……そんなことは」
「大好きなんです」
にっこりと微笑む片桐に、思わず絶句する。
大好きだから、なんだと言うんだ。それが解答用紙を見てもいい理由にはならない。
しかし、あまりに無邪気に微笑まれて、俺は不甲斐無く言葉を失ってしまった。
そして気が付くと答案用紙はほぼ全て片桐に集められていて、笑顔で手渡しされる。
俺は苦々しくそれを受け取った。
「…ありがとう。助かった」
「いえ、こちらこそ。良いからかいのネタが見つかりました」
「……お前、他のは見てないだろうな」
「もちろん。見たってつまりませんから」
「…………」
そのつまらないものを毎日見ている俺を皮肉っているのか。
この片桐という学生にはどこか常に斜に構えた印象がある。
「…あ。そう言えば、周藤先生」
「なんだ」
「はい、これ」
片桐は制服のポケットから小さな青い包みを取り出した。
「キャンディです。今日はバレンタインデーでしたよね。すっかり忘れてたけど 」
「キャンディ……」
「あ。やっぱりチョコじゃないと変ですか?」
「いや、そういう問題じゃない。片桐、すまないが、私は……」
「ストップ!」
「え?」
今日何度も繰り返した文句を口にしようとするのを、途中で止められる。
怪訝な顔をする俺を見上げて、片桐は肩をすくめた。
「やだ、先生。私のメンツ考えてよ。こんな状況で断られるの、恥ずかしいわ」
「メンツ……?」
思わず面食らって、問い返してしまった。
彼女の年の女の子が口にするにはあまりに不似合いな言葉だ。
一体、どこで覚えたのだろう。
もしかすると、かなり年上の恋人でもいるのかもしれない。
ふと、柄にもなくそんなことを考えた。
「そうですよ。別にいいじゃない、キャンディひとつくらい」
「しかし……」
「薄荷味。お嫌いですか?」
「…………」
薄荷は好きだった。
甘いものでは唯一と言っていい好みの味だ。
「……私、そんなに難しいこと言いました?」
「え…」
「周藤先生、眉間に皺。いっつもそんな顔してたら、早く年寄りになっちゃいま すよ」
「……分かった。…ありがたく受け取っておく」
「…ふふっ。最初からそう言えばいいんです」
片桐は薄く笑って、失礼しますと言い捨てあっさりと去って行った。
……変わった学生だ。
大人びていると言う形容詞がいちばん当てはまるか。
しかしその逆にも思えた。
片桐は興味の対象以外には子供の残酷さと似通った冷たさを見せる。
彼女の扱い辛さは他の教師から度々こぼされたことがあった。
だから尚更、さっきの表情は意外だった。
あの片桐が、好意をすらりと口にして、微笑んだ。
……そう言えば、彼女は誰の解答用紙を見ていたんだ?
ふと興味がわいて、一番上に乗っていたものをめくってみる。
名前を見て、なるほどと思い当たった。
何度か片桐と一緒にいるのを見たことがある。親友と言うのは多分本当だろう。
「……良いからかいのネタ、か…」
確かにこの学生の成績はあまり褒められたものじゃない。
俺の中では、特に印象のない学生だ。
ただ、少しだけ、最近いつも寂しげな目をしているのが気になるくらいだった。
***
「……いつから付き合ってたんだ」
「え。…うーん……いつからだろうなあ」
「そんなに曖昧なのか?」
「あ、いや。付き合うって言うのは告白後のことだろ?」
「まあ、そうだろうが」
「それがいつだったかってのはちょっと思い出せなくてなあ」
「……つまり、そういう言葉以前に既に…」
「あっははは!」
「笑って済ますなよ……」
呆れてものが言えない。
手元のグラスをグイとあおると、能面のような顔をしたバーテンが俺の前にさり 気なく水を置いた。
「水島」
「ん?」
「お前はもっと真面目な男だと思っていた」
「なんだよ…説教か?」
数年来の友人である水島は仄暗い店内でも分かるほど既に赤い顔をしていた。
上機嫌なのだ。
この男は昔から少しでも緊張していると全く酔わない性質だった。
「もう幸せな家族になってるんだよ。きっかけがどうだろうといいじゃないか」
「……大丈夫なのか。お前の学校は」
「ああ。…まあね。しがない美術教師だ。おおっぴらにするなとは言われたが、それだけだよ」
「まったく……学校も学校だな」
「周藤、お前は?」
ふいに水島は俺に話を振って来た。
「…俺が、なんだ」
「恋人、いないのか」
「いない」
「…あれから、ずっとか?」
「ああ」
「……ふーん…」
「今は必要無いんだ。欲しいとも思わない」
本心だった。
今になってようやく教職という仕事の面白みが分かって来た気がする。
私生活で重いものをしょいこむよりも身軽でいた方がずっといい。
「お前……いつからそんな風になっちゃったんだろうな」
「…比べてお前はずっと変わらないな」
「若いまんまか?」
「ああ。頭の中身もだ」
「ひっでえなあ。…まあ、お前みたいに急激に老化するよりはマシさ」
……老化。ふと、片桐に言われた言葉が蘇る。
1日に2回も年寄りだと言われてしまった…。
「そんなに枯れて見えるのか…俺は」
「若返りたきゃ学生の若さでも貰ったらどうだ?」
「…お前みたいにか?」
「はははっ。そうそう」
「冗談はよせ。それだけは絶対に有り得ない」
「だろうなあ……今のお前の状態じゃね」
微妙に含みを持った水島の台詞に頭の奥がズキリと痛んだ。
思い出したくない、痛み。
「……水島、飲み過ぎだ。帰るぞ」
「ええ〜もうか?」
「自覚を持てよ。幸せな家庭があるんだろ?」
「ちぇっ。はいはい」
渋々立ち上がる水島の、人間って変わるもんだなという呟きに苦笑する。
俺は変わったつもりはない。
今も昔も、結局俺と言う人間の本質は変わらないのだ。
***
翌朝。
通勤の車を降りて白い息を吐く。
今日は、雪が降っていた。
車の中で舐めていた片桐に貰った薄荷味が、冷たい空気を吸ってますます口中で
冴え渡る。
俺はこの感覚が好きだった。
「先生、おはようございます!」
「ああ、おはよう」
「オハヨー、せんせー!」
「おはよう。おい、走るなよ。雪で転ぶぞ」
こんな寒い日でも学生は元気だ。
それにしても、なぜこんなときでも女子はスカートを短くするのだろう。
若い連中の体感温度は一体どうなっているんだ。
…ふと、こういう思考が年寄りじみているのかと気付いて、少しおかしくなった
。
俺はやっぱり老化したのかな。
「おはようございます。周藤先生」
「ん……ああ、片桐。おはよう」
涼やかな声に振り返る。
そこにいたのは片桐…と、件の学生だった。
「…おはようございます」
「…おはよう。寒いな、今日は」
なぜだか、不思議な心地になった。
片桐に手を引かれている彼女の目が、俺を見ているようで見ていない気がしたからか。
「行こう、寒いよ、早く教室!」
「うん。…あ、待ってよ涼子、走ると風が冷たいじゃない」
「もお〜じゃあ私の後ろにくっ付いてなよ。風よけになるでしょ?」
「涼子じゃ細くて私がはみ出しちゃうよ」
「つべこべ言わないのっ。教室行ったらあっためてあげるから!」
2人の学生は賑やかに騒ぎながら俺を追い越して走って行った。
じゃれ合うその後ろ姿に、俺への微かな拒絶を感じ取った気がして、妙な気持ち になった。
そう。学生と教師とは結局、同じ学校と言う囲いの中に共存していながら、相容 れない別次元の生き物なのだ。
お互いがお互いを色眼鏡で認識し、1人の人間として意識することはない。
その冷えた関係があるからやって行ける。
目に見えないが確実に存在している一線を越えてしまえば、或は水島のようにな るのだろう。
…それにしても、あの学生の目。
少し、気になった。
気付いてはいたが、やはり彼女は何かに心を捕われているようだった。
以前はそんなことはなかったと思うのだが…一体、何があったのだろうか。
「せんせ!」
「……っ…」
「おはようございます!」
「……ああ。おはよう」
学生の声に、我に返った。
……いけない。1人の学生のことを考え過ぎだ。
教師は学生に個人的な興味を覚えてはいけない。
それは教職に就いたときから一貫している持論だった。
教師は教師という型にはまっていなければならない。
教えるのは勉強だ。生活指導は世間の一般常識を垂れれば良い。
もし教師としてではなく、一個人の周藤信彦と言う人間として接してしまえば、 教師失格だ。
なぜなら俺と言う人間の本質は、清い教職からはかけ離れたものなのだから。
「…冷えますねえ、周藤先生」
「柿本先生。おはようございます」
「いやあ。それにしても、先生は雪が似合う」
「…は?」
「ははは。夏よりも冬の方がお好きでしょう?」
「……どうかな」
「雪は冷たく感じますが、案外暖かいんですよねえ。まあ、今の子供はかまくら なんぞ作らないから知らないかな」
「…こちらではかまくらを作れるほど滅多に積もりませんし」
「ああ、なるほど、そうですね。昔東北の学校にいたときは、休み時間に学生と よく作ったものです」
「…………」
柿本先生は今年で定年退職される。
今までに色々な学校を巡り、様々な学生を見て来たことだろう。
俺はふと、柿本先生に質問してみたくなった。
「…柿本先生」
「はい?」
「先生は…、今までの教師生活で印象深い学生というのはおられましたか?」
「……そうですねえ」
先生は遠くを見る眼差しになる。
「学生1人1人、個性がありますからね。その中で印象深いと言えば……まあ、 問題を起こすような学生でしょうかね」
「なるほど…」
「ははは。どうされました。周藤先生、気になる学生でも?」
「え……いえ、そういうわけでは」
「…教師も学生も、人間ですから。馬が合う合わないもありますし、それでも集 団生活をしていかなければならない。そこは社会と何ら変わりませんからねえ」
「そうですね…」
「ですから、周藤先生の学生への接し方は正しいと思います」
「…………」
柿本先生の言葉に、なぜか俺は軽く失望感を覚えた。
俺は一体どんな言葉を期待していたんだ?
教師を長く続けていたこの老人から、何か目の覚めるような台詞でも聞たかったのだろうか。
「…けれど、周藤先生。気を付けられた方がいいですよ」
「は……何を…」
「極端は極端へと走り易いものです。この雪も明日には幻のように消えてしまうでしょう」
「……?」
柿本先生は、俺を見上げ微笑んだ。
俺には理解できない台詞だったが、その何もかもを見通すような微笑に言葉を呑 む。
また、頭の奥がズキリと痛んだ。
……いや、何も迷うことはない。
俺の教師としての行動は、何も間違ってはいない。
そう、決めたんだ。……あのとき以来。
「…ああ、ようやく校舎に着きました」
柿本先生の声に目を覚ます。
目の前には職員用玄関の入り口があった。
傘を畳むと、大量の雪がこぼれ落ちる。
気付けば目に入る光景は、真っ白な世界に変わっていた。
「…積もるかもしれませんね」
独り言のように呟いた。
抜けるような薄荷の冷たさが、目にしみた。
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